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「サハリン島調査の旅 〜川を渡るのも大変です〜」
海岸線を歩いていると、川や河口に出会います。深く大きな場合は、その場で流木を集めてきて、ロープで縛り、いかだを作って渡ります。そうでない場合は、もちろん歩いて渡ります。ある時、真っ黒で泥が堆積している大きな川に目の前を遮られました。対岸までの距離は100mぐらい。まず最初にリーダーのセルゲイさんが、リュックサックを下ろし、裸になって、水深を確認するために川の中へ入っていきました。天気は雨時々曇り。9月下旬の寒いサハリンです。セルゲイさんは対岸へ向け、胸の深さまで歩いていきましたが、水は真っ黒で足元はまったく見えないだけでなく、冷たい流れに耐えかねて岸へ戻ってきました。「よっしゃ!」と次は自分が裸になり、ストック片手に川へ入って行きました。水は息が詰まりそうなほど冷たく、全身が凍りそうでした。流れもあるので、「ここで転倒したら。そのまま流されるな・・・」と慎重に、足の裏の感覚だけを頼りに進みました。半分ぐらい進んだところで、顎の高さよりも深くなり、「だめだ、寒い。これ以上進むと危ない、安全なうちに戻ろう」と思い、後ろを振り返りました。すると、セルゲイさんとメンバーのジーマの二人が固唾を呑んで見守っていました。「これ以上進むのは怖い。でも、このまま引き返すのは恥ずかしいな・・・」と葛藤した結果、意を決して口元まで水に浸かりながら進みました。10m程進むと叙々に浅くなり、無事対岸まで渡りきりました。思わずセルゲイさん達の方へガッツポーズをすると、「よくやった!」と大きな声で歓声が返ってきました。ちなみに、先頭で水深、通過コースを確認するときは空身で川へ入るので、リュックサックなどの荷物は岸へ残してきています。そのため対岸に渡り切っても、再び冷え切った身体で、唇をガタガタいわせながら、リュックサックを取りに戻り、頭の上に重いリュックサックを乗せて渡り直します。一往復半渡り終えた頃には、もうぐったりです。 |
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「サハリン島調査の旅2009〜ミサイルが落ちていました〜」
昨年、サハリン島の海岸線を歩き、考古学、民俗学、動植物の資料収集を目的とした旅に出ました。メンバーはいつもの考古学者セルゲイさんとその仲間たち。海岸を歩いていると色々な物を見つけます。座礁して放置された巨大な船に始まり鯨の骨や貝の化石、各国語のラベルのぺットボトルまで色々なものが目に付きます。
サハリン北部にあるビアフトゥ村を通過し、一日ほど歩いたところに這松が生い茂る無人の原っぱが広がっていました。そこにも旧石器時代の住居跡があるため、這い松を掻き分けて奥へ入って行きました。しばらく進むとアンテナ付の錆びたコンテナが現れ、少し先にはぐちゃぐちゃに潰れた白い金属の塊がたくさん転がっていました。「何ですかこれは?」とセルゲイさんに聞くと、「これはミサイルの残骸だ」と。冷戦時代にアメリカに向けミサイルを飛ばす時の実験をソ連国内で行い、その際の着弾点が極東のサハリンだったそうです。ちなみに発射した場所は旧ソ連のカザフスタン共和国。カザフスタンからロシア本土を飛び越えて、サハリンまで届く射距離と言うことは、極東の基地からアメリカ本土のどの都市を狙っていたのでしょうか。興味が沸くところです。
それもそうですが、人や熊が以前から住んでいる土地を実験場にする歴史の傲慢さに驚きました。近くの村ではちびっ子たちが走り回り、漁師さんも海に出て、ハンターも野原を駆けています。古くからの生活が営まれているすぐそばです。モスクワのマンションに住み、地下鉄で通勤している人から見れば、サハリンなどは無人の荒野で「人など住んでいるはずが無い」と思うのかもしれませんが、モスクワの街が出来るよりも遥か昔から人が住んでいたところです。今サハリンは天然ガスが採れるため、政府も暖かい目を向けていますが、いつかは掘り尽されます。そうなった時に再び実験場としてミサイルが向けられる日が来るのでしょうか?そのような歴史が繰り返されないことを願っています。 |
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| 「アフリカ探検隊員の気持ち」
サハリン島北部のシュミット半島での出来事です。考古学者のセルゲイさん達と一緒に調査のため、深い森の中を歩いていました。昔の地図を見ると半島の先にある灯台まで小道が描かれていますが、現在は灯台も朽ち果て、無人になったため人も通らず、トナカイや熊が通る獣道が所々現れる程度です。そんな視界の悪い中を歩いていると、突然”ガサガサ”と音がしました。音がした方に目をやると、20mぐらい前方の斜面に2匹の子供を連れた母熊です。「熊だ!」と叫び、仲間に知らせ様子を見ていると、こちらに気づいた熊の親子は斜面を駆け上り、私たちから逃げ始めました。これまで何度も熊に会い、こちらが威嚇すると熊の方から逃げて行ったので、今回も大丈夫だと思いました。しかし小熊を安全な場所へ見送った母熊は、突然頭をこちらの方へ向け反転し、「ウォー」と唸り声を上げ、足元の木をなぎ倒しながら突進して来ました。母熊の顔は怒っていました。我々はライフル銃を持ってなく、武器になるのは1,5mほどのシャベルのみ。思わず逃げました。必死で走りながら、登れる木を探してしまいましたが、数メートル走ったところでふと我に返り、こちらへ向かってくる熊に対してシャベルを叩き、笛を鳴らして威嚇しました。すると母熊は再び方向を変え、子供達の方へ逃げていきました。難を逃れ「あ〜、助かった。」と思った時に初めて、よく絵本に出てくるアフリカ探検隊員の気持ちが身に染みて分かりました。犀に追いかけられて、木の上で怯えている絵です。でも、後でよくよく考えると、「木登りのうまい熊にはだめだったな・・・」と。ちなみに、現地では「熊は臆病だから人を襲わない。だから銃はいらない。」派と「森の中に入る時には、必ず銃が必要だ。」派に分かれます。前者は学者さんが多く、後者はハンターです。昔は槍で熊と戦ったそうですが、シャベルで熊と戦うには、まだまだ修行が足らないと感じた旅でした。
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「サハリンの旅は厳冬期がお勧め!−2」
(前回からの続き)
一歩脚を踏み出した瞬間、足元の氷が崩れ、海の中に落ちてしまいました。重いリュックサックを担いでいるので、身動きが取れません。冷たい海の中に首まで浸かり、必死にもがきました。しかし落ちた場所の氷はシャーベット状で、もがけばもがくほどどんどん崩れていきます。シロクマが海から上がれず、もがいているTVの映像を見ますが、全く同じ状況で、まさしく白い蟻地獄です。「春の北極では海に落ちる」ことは、知識の中では知っていましたが、実際に自分が落ちたのは初めてです。一人旅なので周りには誰も人がおらず、もちろん、パニック状態です。そこで、「まず、落ち着け!リュックサックのウエストベルトをはずして、とにかくリュックから離れることが先決だ!」と自分自身に言い聞かせました。はめていた手袋を投げ捨て、ウエストベルトを水中ではずし、何とかリュックサックから逃げ出しました。しかし、その間にも冷たい海水が体温を奪います。沈まないようにもがいている両足の筋肉は、鉛のように重くなり、思うように動かなくなっていきます。同時に頭の中では「これで、上がれなかったらもう終わりかな・・・。」と一瞬浮かびました。
その時、偶然左足が水中にある大きな氷の塊に触れました。ラッキーな事に氷の塊はしっかり凍っていて動かず、「よっしゃ!」と仰向けになり、脚で水中の塊を蹴っ飛ばし、その勢いで背中から氷上に這い上がりました。脱出した氷上では完全に寝転がって、体重を分散し、幸運にも沈まず浮いていたリュックサックを何とか引っ張り上げました。その後、冷え切り、疲れきった身体でようやくリュックサックを担ぎ、四つん這いになって、何度も転びながら、その場から岸の方へ抜け出しました。
皆さん、冬のサハリンはやっぱり厳冬期がお勧めですよ!! (終わり)
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「サハリンの旅は厳冬期がお勧め!−1」
サハリン北部西海岸にある村に知人のおばあちゃんが住んでいて、彼女の所へEWSで協力して頂いた古着を届けに行こうとした時のことです。凍っている間宮海峡の上を歩いての往復2週間の旅です。本来は、前回と同じく厳冬期の1,2月の出発を予定していたのですが、どうしても都合がつかず3月に行く事になり、「春の気温で氷が溶けるのが心配だな・・・。」と、一抹の不安を残しつつ歩き始めました。気温は−10度、海の上は見渡す限り氷が張っています。スタート地点の海の上では地元の人々が氷の穴釣りをし、スノーモビルが走った新しい跡も沖の方へ伸びており、また週間予報では1週間後に−20度になる予報が出ていたので、「まだ何とか歩けそうだな。」と北を目指しました。肩にずっしりと食い込む背中のリュックサックの重さは約30kg。食糧、燃料、手斧、飯ごう、テント、寝袋、古着などが入っています。今年は雪が多いらしく、目の前には雪で覆われた平らな部分もあれば、潮の満ち引きで割れた氷が再度凍りつき、ガラスの破片を突き刺してできた様な乱氷群もあります。その間を縫って一歩一歩北を目指しました。
小さな雪原に足を踏み入れた時、足元の雪からじわっと水が染み出してきました。履いているブーツは犬の毛皮で出来ていて、非常に軽く、暖かいものですが、防水性はありません。靴を濡らしてしまうと足が凍傷になってしまうので、慎重に場所を選びながら先に進みました。幸いな事に風がなく、非常に良い天気で遥かかなたまで見渡せます。
「さて、岸沿いを歩くと雪が多く膝まで埋まるし遠回りなので、沖の氷の上をショートカットしようかな?天気もいいので、見通しも問題ないし・・・。」と思っていた時に、悲劇は起こりました。 (次回に続く)
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「掘り出し物」
サハリンで樺太時代の集落跡の調査を行っていた時の事です。地面を掘ると、当時のお店の名前、住所、電話番号の書かれた湯のみ、お酒やお米の宣伝がかれたお猪口、足袋、レンガ、歯ブラシなどなど、日常の生活用品がたくさん出てきます。ちなみに、掘る場所を選定する時に考古学者の方がまず目をつけるのが、川、海などに面した斜面、土手です。全く平らなところよりも、穴であったり、斜面上のところに、物は埋まっている事が多いです。続縄文時代の住居跡にしても、食べた動物の骨、貝殻、石斧、矢じりなどの狩猟用具、土器の破片なども、やはりそのような場所を掘ると出てきます。良く考えてみると、現代の人も不法投棄をする時に、川の土手から川へ投げ込んだり、山の斜面に沿った林道から谷底に向けてゴミを捨てたりします。ゴミを捨てるのに、昔は合法も不法もなかったので、“とりあえず目の前から見えなくする”、それはやはり人間の習性なんでしょうか。
それはさておき、地面を掘っていると、スコップに「カツン!」と金属に触れたような硬い音がしました。「何かな?」と思って拾い上げてみると、ちょうど手のひらに乗る“たわし”サイズの亀の形をしたものでした。材質は金属。道路の排水溝の蓋に使われているねずみ色の格子状のものと似ており、その格子をそのまま使い、首と手足をつけて亀にした感じです。「これは、何に使うのかな?」「傘立てにしては安定が悪そうだし、書道の文鎮ならもっと細長い方が使い易そうだし、ただの置物かな・・・?」と考え込みましたが、結局分からず終いでした。 今、目の前で使っている物、起きている出来事、今日過ごした一日、何事もなかったかのごとく明日には忘れ去られてしまいます。しかし、100年後、1,000年後に立派な歴史的資料、考古学資料として扱われます。それを考えると、今生きていることを大事にしたいと思う今日この頃です。
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「2008年夏 サハリンの旅4」「豊かなオホーツク」
サハリン東海岸の自然保護区内にある遺跡調査地へ向かい、オホーツク海に沿って砂浜を歩いているときの事。その日の目的地である漁師小屋へ到着し一息ついていると、遠くからエンジンをつけたゴムボートが近づいてきました。誰かと思えば、自然保護区管理事務所の管理官のおじさん。事前に入域許可をもらっていたので、私達の到着を見計らって差し入れを持ってきてくれました。それは海に仕掛けているカニ籠に掛かった、採れたての大きなタラバガニ(ロシア名カムチャッカガニ)でした。おじさんはカニの足を掴み、「これ持ってけ〜」と、私達がいる砂浜に向かって何匹も放り投げてくれました。もちろん生きているので、逃げないように、急いでカニを仰向けにひっくり返します。カニは亀と違って、裏返しになると、大阪道頓堀にあるカニ道楽のカニの看板のように、手足をバタバタさせるだけなので、まずは一安心です。 思わぬタンパク源を手にした私達は、早速鍋に水を汲んできて、焚き火にかけました。カニは見る見るうちに真っ赤になっていき、美味しい色に変わります。ナイフで足を切り落とし、身の詰まった部分だけ食べます。カニのイクラ(魚類、海産物の卵を全てイクラと呼びます。)は塩をかけて食べると美味く、プチプチした感触です。 海岸線にはホタテの貝殻がたくさんうちあげられていました。たまに生きているホタテを見つけると、ナイフで開いて、その場で口に入れます。住居跡を掘ると、貝殻が層になって出てきます。昆布も落ちています。サラダオイルで炒めたり、スープに入れたりし、行動中は適度に乾いた物を拾って、おしゃぶり昆布にしながら歩きます。 ちなみに、ヒトデも海岸に無数に打ち上げられているのですが、どなたかヒトデの食べ方をご存じないですか?ヒトデの食べ方を覚えると、さらに幸せな旅が出来るサハリンです。
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「2008年夏 サハリンの旅3」「焼きイクラ」
前回のコラムに「川の水は濁り、辺りは魚が腐った匂いが漂っていて、あまり第一印象の良くない旅立ちでした。」と書きましたが、その原因は川を下っているうちに明らかになりました。イクラ目的の鮭の密漁でした。川には、そこら中に魚の死体が浮いています。川岸や川底だけでなく、増水時に流され川の中に横たわる倒木の枝にも鮭が引っ掛かりぶら下がっています。まさにダリのだらりと下がった時計の絵にそっくりです。それらが腐敗臭を放っていました。面白いのは、イクラを取るためにお腹を裂かれ捨てられた鮭は目玉が残っているのですが、お腹を裂かれずにそのまま捨てられた鮭はほとんど目玉が残っていませんでした。どうやら、硬い皮を食べられない小魚が柔らかい目玉だけを食べたようです。一緒に旅をしているセルゲイさんに、「なぜこんなに密漁者が多いのですか?」と聞いたところ、「この辺の田舎では働きたくても、仕事自体がない・・・。」と。都会の机の上では処理しきれない、色々と複雑な問題があるようです。
密漁者だけでなく、もちろん正規の漁師の方々もいればライセンスを得ている釣り人もポロナイ川で釣りをしています。自分も、小学生の頃以来、久しぶりに釣りをして70cmの鮭を釣りました。すぐにその場で3枚におろし、焚き火にフライパンをかけフライにしたのですが、大きく重い身はボリュームたっぷりで、貴重な旅の食糧になりました。でも、もっと美味しかったのは“焼きイクラ”です。日本で食べるようにイクラを生で食べられるようにしようとしたのですが、時間がなかったので、フライパンで炒めることにしました。最初、「えっ、イクラを焼くの?」と半信半疑だったのですが、セルゲイさんから「地元の少数民族は、よくやる食べ方だよ」と言われ、口にしてみると結構美味しく、そういえば「日本でもたらこを焼くな・・・」と妙に納得した珍味でした。
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「2008年夏 サハリンの旅2」
サハリン中央部を流れるポロナイ川を下ってきました。いつものセルゲイさんとゴムボートを漕いで、先住民族の住居跡の場所を確定するのが今回の目的です。出発前日に知人からもらったロシア製のゴムボートは、雑草生い茂る庭にぼろ雑巾のように放置されていて、オールを固定する部品は壊れ、そのオール自体もなく、別のものを代用していました。パベーヂノ駅近くの陸橋からポロナイ川の川原へ降り、ゴムボートに空気を入れ、荷物を積み込みましたが、川の水は濁り、辺りは魚が腐った匂いが漂っていて、第一印象のあまり良くない旅立ちでした。 川を下りながら川岸に人が住みやすそうな場所を見つけると上陸し、住居跡の調査を始めます。住居跡は小高い斜面の上にあり、半地下式の住居のため地面に丸い穴が掘られています。ちなみに場所選定の有力な目安となるのが、白樺の木です。大雨になると川は増水し、全ての物は流されてしまいます。そのため、川には巨大な倒木が至る所に横たわっています。しかし、白樺は乾燥した場所にしか育たないので、白樺のある場所は過去に水で流されなかったという証拠だそうです。
夜は林の中や川岸でテントを張りキャンプするのですが、もう大変です。蚊とブヨとの戦いです。焚き火をすると蚊はいなくなるのですが、ブヨは煙を嫌がらず、いつもまとわり付いてきます。もちろんテントの中にも侵入し、ちくちく刺されながら夜明けを迎えます。クマも、熟睡を与えてくれません。夜にテントの近くをガサガサと歩く音がすると、飛び起きてスコップを叩き大きな音を出したり、焚き火に木をくべて火を大きくし、追い払います。 そんなこんなで、6日間かけて海まで下りました。最終日は雷雨に追いかけられながら日没と競争し、ゴールの灯台を目指しました。色々な意味でなかなかハードな旅でしたが、また多くのことを学んだ旅でした。
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「2008年夏 サハリンの旅1」
先日、サハリン東海岸にある住居跡を調査してきました。
日本の街があった敷香(シスカ。ロシア名:ポロナイスク)から東へ半島が延びており、その半島沿いに、日本の村や続縄文時代の跡が点在しています。敷香の博物館でいつものセルゲイさん(考古学者)と合流し、山盛りのザックを担ぎ、4人で東を目指しました。目的地までは海岸線を何日もキャンプをしながら歩くのですが、なかなか楽しい旅です。数年前まで鉄道が走っていた廃線の鉄橋は、線路の横にちょうどタイヤの幅に板が打ち付けられ車が通れるようになっていたり、橋が無い大きな河口は流木、ロープを拾い集め筏を作って渡りました。目的地のエリアは自然保護区に指定されており、許可を得た研究者以外は入れず、自然が豊かに残っています。熊の足跡がそこら中にあり、尾白鷲はいつも頭の上を旋回し、アザラシもちょこんと顔を出してこちらを見ています。砂浜には昆布や帆立貝の貝がたくさん打ち上げられていました。ちなみに、樺太時代、続縄文時代問わず住居跡を掘ると、ホタテの貝殻が山のように出てきます。その他、海岸線には教科書に出てくるような見事な地層が露出しており、無数の帆立貝の化石が観察できます。植物も咲き乱れ、丘の上は一面のお花畑でした。
泊まりは、自然保護区の無人小屋や漁師さんの傾いた木造小屋です。炊事は、流木を拾い集め、焚き火を起こして行います。自然保護区の小屋は以前人が詰めていたようで、ロシア式のサウナもありました。流木を鋸や斧で釜の大きさに整え石を焼き、裏の川から組んできた水を焼けた石にかけて、スチームサウナにします。そこまでするのには、一日がかりですが、極楽な時間です。
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「セルゲイさんとの旅」
いつも行動を共にしているサハリンの考古学者セルゲイさんと、今年の夏も一緒に宝探しの旅に出ます。目的地は、サハリン中部東海岸側にあるチュレーニー島(アザラシ島)です。稚内から船に乗りサハリンのコルサコフ港へ。その後、州都のユジノサハリンスクから夜行列車で北上し、戦前、大きな日本の街があったポロナイスク(敷香・シスカ)へ向かいます。チルペニア湾に面しているこの街から、東に伸びているチルペニア岬の沖にチュレーニー島があります。街から岬まで往復約200kmを歩き、途中でキャンプをしながら岬を目指し、島へはボートで渡ります(手漕ぎ?)。この辺はアイヌを始めとした先住民族の方々が住んでいた土地で、様々な遺跡の調査をしながら村と村(廃村)を繋いで進むのですが、もちろん立派な道などは無く、川は腰まで浸かりながら渡り、熊と蚊の襲来におびえながらの楽しい旅です。
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「ロシアのお絵かき」
サハリンの北に先住民族ニブヒの方々が住む村・チェルウンブドゥへ訪れた時のことです。村の小学校でほのぼのした絵を見つけました。迷路の様な狭い廊下に、幾つかドアがあり、トイレのドアには男の子・女の子の絵、掃除道具入れのドアにはほうきやバケツの絵、給食室にはしゃもじやボウルの絵が描かれていました。体育の部屋の壁には、モスクワオリンピックのマスコット“熊のミーシャ”もあり、なんとも言えない心地よい雰囲気が漂っていて、日本やアメリカとも違うロシアや東欧アニメの空気を改めて感じました。
また、州都のユジノサハリンスク美術館でもロシアの底力を見せてもらうことができました。美術館のホールでは、チビッコお絵かき教室が行われていて、お父さんやお母さんと一緒にチビッコ達が、直接床に画用紙を広げ上手に絵を描いています。水彩絵の具のパレットがないので、よくお菓子の箱の中に入っている、仕切り用に使うペラペラのプラスチックの“あれ”を切って使い、元気なチビッコ達は大胆なタッチで、のびのびと色を重ねていきます。うまくいかないところは、お父さんが手伝って仕上げたりと、そこはどこの国も同じでした。しかし、先生に見てもらうために、床から画用紙を持ち上げると、そこには四角い枠が床に綺麗に彩りされていました。先生に絵を褒められて笑顔の子供達の後ろで、美術館の職員の方が雑巾片手に、床の絵の具を黙々と拭き取っています。ちなみにお絵かき教室のホールには、額に入った立派な絵画が壁一面に展示されていました。その中で、のびのびと絵を描かせる大胆さ。なかなか真似の出来ることではありません。「これぞ、芸術の国ロシアの真髄なのか!」と感心した、その日一日でした。
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「ニコライさん自慢の愛車」
サハリンでお世話になっているニコライさんは、大のメカ好きです。愛車は、戦後間も無く(確か1953年製だったと思います。)生産された4〜5人乗りのソ連製の軍用小型ジープ。自分で修理、改造を繰り返した宝物です。後部座席に窓は無く、すべて幌で覆ってあり、その幌の内側には真っ赤な毛布が張り巡らされています。ボンネットの前面には、大きく真っ赤な星が一つ。“いかにも、ソ連製!”という感じの出で立ちです。「悪路を走るにはこれが最高だ。オフロード走行の大会でも、日本車を抜いていつも俺が一番なんだ。まぁ、エンジンは日本車のエンジンに積み替えてるんだけどね。」、「冬のハンテイングに行く時も、窓がなく、毛布で覆ってあるお陰で、暖かく車の中で寝られるんだ。」と大のお気に入り。情緒ある車で、壊れているスピードメーターの針は走行中に右にふらふら、左にふらふら。正確な速度はいつも謎です。車のドアに鍵があるのは運転手側だけで、助手席側にはありません。そのため、車を離れる時にはまず運転手側の鍵をかけます。その後、ねじ回しを片手に助手席側へ回りこみ、ドアの取って自体を外してしまいます。完璧な、防犯システムです。オーディオシステムも素晴らしい。走行中に音楽がかかっていて、CDではなさそうなので、「ラジオですか?それともカセットテープですか?」と聞くと、「いや、これだ。」と指を指された先に目をやると、床にメモリーカードが転がっていました。ニコライさんは、今流行りのシステムを、自分で直接スピーカーにつなげていました。 庭にサウナを作ったり、魚釣りやハンティングの道具を作ったりと、ロシアの人々は何でも自分で作ってしまいます。古い物を大事にし、有る物を無駄にせず、頭と手と身体をフルに使って生活している姿を見るたびに、常に物で溢れている日本の消費社会を考えさせられるロシアの旅です。
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| 「ロシアで学ばせてもらったこと−2」
台風で荒れた去年の夏のこと。サハリンから稚内ヘ帰るため、フェリーターミナルへ向かっていました。フェリーが出入りする時刻になると、いつもターミナル付近は人々や車で混雑しているのですが、その時は人も車もまばらでした。「あれ、おかしいな。もしかしたら出港が数時間伸びたのかな?」と思いつつターミナル内に入ってみると、室内は電気が消えていて薄暗く、誰もいません。窓口のおばさんに聞いたところ「今日は、欠航になりました。次の運行は、いつか分かりません。」と。しかし、それだけでなく「ちょっと、あそこの日本人に説明してよ!」とつっけんどんに言われたので、よく目を凝らしてみると、暗い待合室の椅子に一人ポツンと誰かが座っています。話しかけてみると、初めてロシアに来た一人旅の彼は言葉も状況も分からず、どうすることもできない状態でした。そこで一緒に町へ帰り、同じホテルに泊まりましたが、彼のビザの期限を確認すると、ちょうどその日までです。急いで、ビザ発給のため彼に招待状を発行した旅行会社へ連絡をしたところ、「新しいビザの代わりに、期限延長を証明する書類を準備します。それを、出国の時に見せれば大丈夫です」と。しかし、過去にもビザが切れて出国できなかった人を知っており、「いや、それで大丈夫ですか?新しいビザの申請をしなければならないんじゃないですか?」と確認しても、旅行社は「大丈夫です」の繰り返し。2日後天気も良くなり、帰国のために彼と二人でターミナルへ向かいました。しかし予想通り、「ビザの期限が切れています。ビザを取り直してください。」と彼は出国させてもらえませんでした。
他の国でも同じですがロシアでも、自分の目と耳と足で情報を得て、頭と身体を使わなければ旅は出来ません。人に頼ることなく、自分から動かなければ、誰も助けてくれません。そこが、ロシアの旅の面白さですね。
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| 「ロシアで学ばせてもらったこと−1」
旧ソ連を含み、ロシア人と行動を共にして学ばせてもらったことがたくさんあります。旅の仕方、生活技術だけでなく、生活観、人生観も大きく影響を受けました。
1992年、旧ソ連のカザフスタン共和国との合同チームでヒマラヤに臨みました。私達のチームは未踏ルートからの登頂を目指しており、カザフスタンのメンバーが先陣を切ってルートを開拓し、その後を日本チームが追いかけていました。彼らは酸素を吸わず、どんどんルートを伸ばしていきます。上部キャンプまで到達したところで、最終アタックの準備と休養も兼ねて彼らはベースキャンプへ下りてきましたが、それと同じ頃「日本人メンバーが標高8,000mあたりでメンバーが動けなくなった」と無線が入りました。自分ひとりが生きて行くだけで精一杯、いつ死んでもおかしくない環境です。ましてや無酸素で行動し、消耗しきっている身体にもかかわらず、彼らは何一つ愚痴を言わず淡々とレスキューに向い、無事仲間を下ろしてくれました。
旧ソ連が崩壊した直後で、彼らの装備は決して豊かな物とはいえませんでした。着ている物と言えば“USSR”と背中に書かれた、日本の中学校で配られるようなジャージ、ベースキャンプのテントはサザエさんに出てくるような典型的な三角屋根型テント、リュックサックの中は重たい瓶詰め、ハムの塊り・・・。日本の山登りしか知らなかった私にとっては、ものすごい衝撃でした。”装備はお金を賭けて良いもの、軽い物“を当たり前と思っていましたが、彼らは正反対でした。カザフのメンバーは装備ではなく、身体と技術で山を登っていました。記録や名誉のためでなくアルピニストの魂で登っています。そのとき本当の登山家、サムライを見ました。登山”道“見せてもらいました。彼らの生き方は、それ以降の私の山の登り方、旅の仕方に、ものすごく大きな影響を与えてくれました。
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「スノーモビルでタイガを走るのは命懸け!−2」
スノーモビルは、自分の重さで氷を割ってしまい、川に中へ落ちてしまいました。幸いなことに川の深さは1m、雪をかぶった土手の高さ1m、川幅は2mぐらいの小川だったので、ちょうど自転車でリヤカーを曳いているような形のスノーモビルは、ソリとの連結部分を中心にV字型に川底に突き刺さるようにして止まり、車体の前の部分にあるエンジンも水没を免れました。
さて、そこからがお楽しみの始まりです。ごつい鉄の塊のロシア製マシーンは約300s、風呂桶のようにたっぷりと水が入った箱ソリは約200s、4人で0.5tの塊を足元から引き上げなければなりません。早速そりに積んでいる斧でタイガの木を切り倒し、てこ棒の要領でじりじりと引き上げようとしましたが、そう簡単にはあがるものではありません。雪の土手は崩れ、川の氷もさらに割れていきます。足元には黒々とした水が流れており、水没したリュックサックも氷の塊と化してしまいました。厳寒の中、人が川へ落ちるのももちろんそうですが、一番恐れていたのは、スノーモビル本体が完全に水没することでした。そうなってしまうと、引き上げることは不可能で、海岸に座礁して30年間も放置されている難破船と同様運命をたどるのが目に見えています。
ちなみに必死で引上げ作業を続けている中で、頭の中では“露諜報部員から颯爽とスキーで逃げる007”が走り回っていました。タイガの中をスノーモビルで追いかけられている007が、上手く彼らを氷結した川の上に誘い込み、みごと沈没させる。まさしく、そんな感じでした。そうこうしているうちに、少し持ち上がった本体とそりの連結部分を切り離し、幸いなことに何とかエンジンがかかったので、アクセルを吹かし、水面からジャンプするイルカの様に飛び出してみごと脱出に成功しました。
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「2007/5 スノーモービルでタイガを走るのは命がけ!−1」
トナカイの足跡を追ったり、仕留めた獲物を運ぶのにスノーモビルを使います。果てしないタイガには生け花で使う剣山の様に木が密集して生えており、右を見ても、左を見ても木ばかりです。当然道など無く、正面から体当たりをして木をなぎ倒しながら走ったり、スノーモビルの幅ぎりぎりの木と木の間をすり抜けたりします。
地面は凸凹の連続で、しっかりつかまっていないと簡単に振り落とされてしまいます。また、下枝が四方八方に飛び出しており、そりに座っているとちょうど目の高さに来るので、気を抜いているとみごとに枝が目にヒットします。乗っている人間を傍から見れば、ジェットコースターに乗りながらボクシングをしている感じです。顔面に襲い来る鞭のようなパンチを両腕でガードしながらも、目をしっかり開けて両腕の隙間から前を確認し、地面の凸凹が来た瞬間にさっと両腕をほどき、そりにしがみつく。そして、すぐに次のパンチに備えて顔面をガード。これの繰り返しです。気を抜いていると、顔のミミズ腫れは当たり前のことで、失明するのも避けられません。
スノーモビルは、トナカイの足跡を追ってどんどん進みます。これまで、目の前には木しか見えなかった風景が突然開け、凍った川の上に出ました。冬は海や湖も凍り、立派な道路に早変わりをし、穴ぼこだらけの林道も雪で平らになり、夏よりも走りやすくなります。川に出て下枝のパンチから逃れ、つかの間の安堵感に浸っていると、“ストン”と急に自分の体が沈みました。そして自分の目の前では、前に座っていたハンターが慌ててソリから逃げ出そうとしています。「なんだ、なんだ!」と状況が分からず、周りをよく見てみると足元には割れた氷の間から、黒々とした水が迫っていました。(続く)
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2007/4
「トナカイ狩り同行記−2」
氷結している海岸を歩き、5日後にようやく目的の村へたどり着きました。村では、今回のメンバーと合流し、スノーモビルでタイガのど真ん中にある狩猟小屋へ向かいました。メンバーはロシア人2人、少数民族エベンキのハンター3人、それと私の合計6人。狩猟小屋は、手作りのログハウスで、薪ストーブと、小さなベッドが2つあるだけです。ストーブの燃料は、目の前に果てしなく広がるタイガの木。毎日一本、小屋の周りの木を切り倒し、斧で小さく割って薪にします。そのため日に日に小屋の前が広くなっていきます。
男所帯では手の込んだ料理はしませんが、一日猟に出て疲れ、凍えて帰ってきた身体にはトナカイ肉の塩茹で、バターを塗った黒パン、砂糖たっぷりの甘い紅茶が最高のご馳走です。ビタミンの補給は、(冷凍)生レバーです。もちろんウオッカも。
タイガでは、スノーモビルでトナカイの新しい足跡を追いかけ、近くなるとスキーに履き替えトナカイの群れを追います。仕留めた獲物は、凍りつく前にその場で解体をするのですが、彼らの技はみごとです。ナイフ一本で上手に首、下肢の関節をはずし、切り落とします。胴体だけになったら、まず毛皮をはぎ、次は内臓を取り除きます。一滴の血も無駄に流しません。感心したのは、胃の一部を袋状に切り取り、ナイフを入れてちょうどスーパーの袋のような取っ手をつくり、そこへ取り出した心臓、肺、レバー、腸など入れて持ち帰りました。まさしくエコライフの見本です。
4日間で合計7頭仕留めた獲物を、ソリに積み込み、村へ帰りました。それらの獲物は、一部を街で売り現金収入に替え、残りは村の少数民族の方に分け与えられます。温まるために木を切る。食べるために動物を殺す。村人たちは生きていくために昔ながらの生活を送っていました。(終わり) |
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2007/3
「トナカイ狩り同行記−1」
サハリン西海岸の北の街から約90km離れた林業用道路の終点に村があり、そこから先は一面のタイガが広がっています。村にはハンターが住んでおり、彼らのトナカイ狩りに同行するため、その村を訪ねてきました。
今回は道路を使わず、氷結している間宮海峡の海岸に沿って歩いてきました。海ははるか沖まで凍っていて一面まっ平らですが、海岸近くは一度氷結し、その後潮の満ち引きなどで割れた氷の板(厚いものは1m近くあります)が、無造作に積み重なっており、万里の長城のような高さ数メートルの壁になっているところもありました。
海岸には氷の壁だけでなく、さびて二つに折れた難破船も数多く出てくるのですが「どうすればこんな風になるのか?」と不思議に思うものも多々あります。
途中で通過する小さな村の付近では、村人が氷に穴を開け、コマイ(タラ科)漁をしています。釣った魚は外気温で凍らせ、まとめてソリに積み込み、スノーモビルで村まで運び、貴重な現金収入に換えます。そのため、村の近くの海岸では魚がソリからこぼれ落ちていることがよくあり、それを拾ってはナイフで魚の身を削り、ルイベとしてご馳走にありつけました。
宿はテントや廃屋です。夜間の気温は−25℃。テントや扉も窓も無い壊れた小屋の中は冷凍庫のなかで寝ているのと同じです。全ての物は凍っていますが「寝袋一枚で、人間はよく凍らないな」と常々感心します。
歩いていると、地元の人から声を掛けられます。「車で行けるのに、なぜわざわざ歩く必要があるのだ?それもこんな寒い中」、「一人は危ないからやめなさい。足を折ったらどうするのだ、酔っ払いに襲われたらどうするのだ」スノーモビルに会うと必ず「乗っていかないか!」と。ぬくぬくとした都会で住んでいる者にとっては面白い旅ですが、日常生活を送っている地元の方から見ると、どうも理解し難い行為のようです。(続く) |
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2007/2
「豪快なロシア人」
国が大きいロシアの人々は、あまり細かいことにこだわりません。街の歩道は穴ぼこだらけ、マンホールのふたは無く、地面から鉄の棒が出ているのもよくある風景の一部です。公園には壊れている滑り台が何年も置かれ、部屋の壁紙のつなぎ目はぴったり合ってなく、ナイフの刃はネジ回しや缶切り代わりに使い、刃がこぼれることなどお構いなしです。防寒靴や手袋を買うと右と左で大きさがかなり違い、ヘリコプターの(室内にある)燃料タンクのふたの代わりにジャガイモを突っ込み、未だかつて真っ直ぐきちんと切手が張られた郵便物は見たことがありません。
ちょっと前まで映画の吹き替えは、一人の男性が登場人物全てを早口でまかなっていました。それも、元の英語のすぐ後にそのままロシア語をかぶせているので、両方聞こえる本当の2ヶ国語放送でした。飛行機の窓からは隙間風が入り、車の窓からは埃が入り、鉄道駅の窓口で往復切符を買うと、何故か行きと帰りの切符で値段が違います。
しかしこれまでの中で一番印象に残っている“豪快”は、初めてTVの撮影の仕事でシベリアの田舎町に行った時のことです。日本の撮影スタッフと現地コーディネーターのごついロシア人の方が色々と仕事の話をし、最後に支払いをしました。日本のスタッフの方はかなりの額の分厚いアメリカドル札の塊を渡しましたが、コーディネーターの彼はそのまま数えることなく、テーブルにあったロールケーキの包み紙で無造作にその塊を包み、「サンキュー」と言ってコートの内ポケットへ放り込み、そのまま帰って行きました。あっけにとられましたが、マフィア映画のワンシーンを見ているようで、格好よかったです。
ロシアを旅して日本へ帰ってくると、全てが安全に整備され、日本人の繊細さ、職人気質に感心する一方、アメニモマケズ、カゼニモマケズ生きていく豪快さを失っているように思えて仕方ありません。 |
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2007/1
初めての一人旅
初めての一人旅は、ロシアでした。訪れた場所はベーリング海峡に面するロシア最東端の村ウェーレン。新潟から船に乗ってウラジオストックへ。その後、鉄道、飛行機、ヘリコプターと乗り継いで、ようやく村へたどり着きました。新潟から1週間の距離です。駅では、いち早くチケットを手に入れようと殺気立った行列に並んでチケットを買い、飛行機のみならずバス、鉄道で国内移動する時にも必ずライフル銃を肩にかけた係員のパスポートチェックを受け、単語程度しか知らないロシア語で時刻表と格闘し、構内アナウンスに必死に耳を傾け、一歩一歩がドキドキの旅でした。
村には何もありません。小さな売店が2軒、郵便局、学校、幼稚園……。娯楽施設もなく、村の人たちの楽しみといえばテレビと夕方の散歩。昼間人通りのほとんどない村の通りに、仕事が終わった夕方になると人々が溢れ出します。
子供たちはとても純粋です。近隣のさらに小さな村の子供たちは、ここの学校の寄宿舎で生活をしながら勉強をしています。小学生から高校生まで、みんなひとつの建物で暮らしており、お兄さん、お姉さんたちがしっかりとちびっ子たちの面倒も見ています。放課後の廊下では、高校生が小学生と一緒にあやとりや、絵を描いたりして遊び、掃除、夕食作りのジャガイモの皮むきもアドバイスしながら一緒に作業をしていました。校長先生曰く「ここはモスクワから遠く離れています。食べ物も品物も十分な物は届きません。でも、悪いことも届かないので子供たちは素直に暮らしています」
しかし、学校の壁に飾ってある子供たちの絵に目をやると、男の子が描いた絵は軍艦、戦闘機、戦車にロシア国旗が目立ちます。東西冷戦時代、アラスカと国境を挟んだこの村は最前線でした。新鮮な果物、野菜ひとつ満足にない村に、武器は備えられています。国民一人一人の生活よりも、重い存在の“国境線“を考えさせられた旅でした。 |
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2006/12
今回は、私のサハリンの師匠であるセルゲイさんについて、少し。
セルゲイさん。52歳。考古学者。とある田舎町の郷土史博物館で資料保管主任を務めています。基本的に肉は食べず、牛乳も飲みません。主に野菜しか食べないのですが、身体はムキムキマンです。非常に寡黙で、必要なこと以外喋りませんが、いつもニコニコしています。読書を好み、知識豊かなセルゲイさんは、大人も子供もみんなから好かれ、人から物を頼まれると絶対に嫌とはいえない性格で、自分のことは放り出して、真っ先に相手のことを考えます。今年の夏も、私達がキャンプ地に向かうために準備してもらった車の手配で、当日も走り回ったあげく、出発した車の中で初めて食糧、寝袋、生活用具一式を詰め込んだ本人のリュックサックを積み忘れたことに気付きました。ちなみに服は着のみ着のまま、足元はスリッパ……。遺跡の発掘現場では、珍しい物が出てきた時には「ウラ〜!(バンザ〜イ)」と両手を挙げ、満面の笑みで喜びます。重いキャンプ装備があっても、絶対に人には持たせず、全て自分のリュックサックに入れてしまいます。
みんなに優しいセルゲイさんですが、ものすごく頑固な一面もあります。特に子供の教育や、自分の研究の事となると絶対に持論を譲らず、普段の朴訥とした喋り方も、この時には顔を赤らめ、声も大きく、早口になります。
そんなセルゲイさんの当面の計画は、サハリンからロシアの大陸に渡り、そのままベーリング海峡に向け北上、国境を越えアラスカへ。そして、南米へ。人力で何年もかけて、少数民族の暮らしを取り入れながらの旅です。大きな旅は、技術、体力、資金だけではできません。現地の方々に快く受け入れられてもらえる人柄を持っているセルゲイさんだからこそ、やり遂げられる旅になると思います。 |
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2006/11
セルゲイさんの宝箱
いつもサハリンで行動を共にしている考古学者のセルゲイさんが勤めている郷土史博物館へ、札幌からの学者さんと一緒に収集資料整理のお手伝いに行ってきました。
セルゲイさんのコレクションは多岐に渡り、土器や矢じりなどの本業である考古学資料だけで無く、樺太時代の食器や古民具、アイヌの古い写真、化石類、ソ連時代の絵葉書やコイン、ロシアのチョコレートの包み紙、海岸で収集した貝殻、民俗学、考古学の書籍、絵画……などが無造作に紙箱に詰め込まれ、所狭しと倉庫に並んでいます。一歩倉庫に足を踏み入れると、まるで一昔前のおもちゃ屋さんにタイムスリップしたかのようです。
その中で、今回はサハリンで収集された貝殻の種類、採集場所ごとの分類と樺太アイヌに関する資料の整理を中心に行いました。日本国内において、サハリンに於ける貝類の生息状況に関する詳細な資料はまだ無く、非常に貴重な資料を作成することが出来ました。また、樺太アイヌに関しても資料は少ないのですが、残されていた当時の貴重な写真から個人名や撮影場所を確定することが出来るなど、同じく多大な成果を上げることが出来ました。
ちなみに私が一番興味を持ったのが、ミッキーマウス。絵の具で上手に描かれたミッキーマウスに、ステンドグラスのようにワイヤーで縁取りがされている物で非常に良い味がでていました。しかし、その出来具合よりも何よりも驚いたのは、この作品の裏に書かれている記述を読むと1962年にある人から博物館へ寄贈されたものでした。その時代、つまりソ連時代にミッキーマウスが普及していて、国民に支持を得ていたと言うことです。さすが、民間外交官のミッキーですね。 |
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2006/10
インディージョーンズの冒険か、それともドリフのコントか?−2
ようやくたどり着いた、対岸の島でしたが、まだまだ満ち潮には時間があり、島には幅広く遠浅の砂浜が広がっています。ボートを降りたのは、満ち潮のラインの100mほど手前。潮が満ちて、ボートが流されないように、みんなでボートを押し上げましたが、傾斜のある砂浜で重いボートを押し上げるのは至難の業で、押したり、引いたりして、ようやく3分の2ほど引き上げました。しかし残り数十mのところで力尽き、「まぁ、これだけ上げておけば、潮に持っていかれることはないだろう」と言う結論になり、砂浜で運良く見つけた重い鉄の塊を錨代わりに使って、その場にボートを残しました。
翌朝、はるか沖を見ると黒い点が。目の前には、ボートはなく、黒い点はどんどん北へ流されています。急いで追いかけましたが、ボートは次第に外海のオホーツク海に近づき、波に激しくもまれ始めました。傍から見ていると、かっこよく波頭を乗り越えているように見えましたが、次第に船内に水が溜まりだし「サハリンのタイタニックや〜」のごとく、私達の目の前で、船首を上にして垂直に海の中へ沈んでいきました。私の横で、一部始終を眺めていた仲間は一言「これは運命だ」と。
しかし、ここからがロシア人の力の見せ所。砂浜に流れ着いている、流木、板、釘、電線を拾い集め、いかだを作り上げました。荷物を載せ、メンバー4人が乗ったいかだは、完全な浮力を得るまでには行かず、スコップで漕ぐたびに海中へ沈みます。しかし微妙なバランスを保って、上手く浮遊しながら進んでいきます。水の上に浮いて進むカヌーの感覚とは違い“浮遊”しながら進む感覚は不思議な感じでした。
彼らと旅をしていて“計画性の甘さ”を感じることが多々あります。しかしそれをも超越する“行動力”“生活力”に、やはり私は勝てません……。(この項終わり) |
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2006/9
インディージョーンズの冒険か、それともドリフのコントか?−1
ロシア人はよく「これは運命だ!」と口にします。
今年の夏、考古学者、民俗学者と共にサハリン少数民族のニブヒの住居跡を訪ねる旅をしました。場所は現在盛んに天然ガスを産出しているサハリン東海岸にあるノグリキの沖合いにある島。「島へはボートで渡る」と聞いていた私は、何一つ疑うことなくモーターボートか何かで颯爽と渡るものと思っていました。いざ海岸に着いてみると、目の前には壊れて放置されている手漕ぎボートが一艘。それも、舟艇にひびが入り、二つあるべきオールも一つのみ。もちろん壊れている。サハリンにはよくある風景。しかし、そこからがロシア人の腕の見せ所で、どこかで拾い集めてきた石油製品で出来ている床材(壁材?)を、小さくちぎって昼飯で食べた肉の缶詰の缶に入れ、それを焚き火で溶かしてどろどろにし、木の枝を使ってうまくパテのようにひび割れを埋めていきます。温度が下がればカチカチに固まり、みごと修理完了。一つしかないオールは、常に持ち歩いているスコップで代用。修理を終え、気合を入れて漕ぎ出そうとしましたが、潮はちょうど引き潮。遠浅の海を、みんなでヘドロに足を取られながら延々と沖合いまで押しました。
へとへとに疲れ果てていた頃、ヘドロの中で何度も足をつつくものがいます。何かと思って周りを見回すと、30cm程もある大きなハゼです。その瞬間疲れも一気に吹っ飛んで、急遽手づかみ大会が始まりました。捕まえた10匹ほどのハゼは、もちろんその日の夕食に並びました。ようやく浅瀬を通過し深い所に出たと思えば、今度は流れに負けないようにスコップを持って格闘です。舟のへりで指をぶつけ、血を流しながらの格闘は続き、ようやく対岸の島に船はたどり着きましたが、そこには“新たな運命”が待っていました。(次回へ続く) |
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2006/8
冒険とは?
以前、カムチャッカ半島付け根の街マガダンから、「コリマ街道」を通ってシベリアを旅しました。極東からシベリア中央付近のヤクーツク(サハ共和国)まで延びる「コリマ街道」は、スターリンの独裁時代に様々な悲劇が繰り返された街道で、木材の伐採、金、石炭などの発掘作業、線路・道路作り、発電所建設など、日本やドイツの捕虜が強制労働させられた場所です。当時は大きな街が並び、路線バスも走っていたようですが、今ではバス路線など遠の昔になくなり、廃墟と半分埋まった露天掘りの鉱山跡が延々と続いています。
増水した川を渡り、熊を遠目に見ながら峠を越え、蚊柱の襲来にもがき、時にはトラクター、警察車両などをヒッチハイクしながら旅をしました。シベリアの重要な幹線道路であった街道は放置され激しく傷み、穴ぼこと池のような水溜りだらけ、木製の橋は朽ち果て、路肩も崩れ落ちて、まさに“ファイト〜一発!”さながらの旅でした。
車内の天井で頭を打つぐらいのオフロードを走っていると、あるとき急に整備された綺麗な道が現れました。驚いて外をよく見ると、これまでと何一つ変わらない景色のなかに看板がひとつだけ立っており、それはロシア共和国とサハ共和国の国境でした。サハといえば、愛知万博に来たマンモスの故郷で、地下資源も豊富な国です。以前は“旧ソ連”で一まとめの国でしたが、ペレストロイカの後は、どんどん小さな国が独立し、経済の格差も現れ、シベリアの奥であっても例外ではありませんでした。
社会主義から資本主義に変わったロシア。モスクワでは、毛皮のコートにミニスカートのお姉さんが闊歩する横で、物乞いをする子ども達がお腹をすかしています。田舎のおじいちゃん、おばあちゃん達は口をそろえて「昔は良かった。服も、食べ物もみんなもらえた。」と言っています。やはり、山でも街でも生きて行くことが最大の冒険ではないでしょうか。 |
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2006/7
曲線と直線
初めて足を踏み入れた北極はロシアの最も東、ベーリング海峡に面した村ウェーレンと海峡を挟んだアラスカ側の村ウェールズでした。ロシアのウェーレンでは、トナカイと共に暮らしている少数民族のチュクチャやアザラシ、鯨を追っているアジアエスキモーが暮らしています。モスクワから最も離れた場所には、物資も届かず、村にある売店は2軒。食料品店と生活雑貨屋だけです。食料品店にある生鮮食品といえばみずみずしさを失ったりんごとジャガイモ、ミルクはなく缶詰のコンデンスミルクがあるだけでした。学校のトイレには紙もなく、子ども達は書き古したノートを破って、お尻を拭いていました。しかし、ベーリング海峡の中央を真っ直ぐに走る日付変更線を超え、同じ北緯66度付近にあるアラスカ最西端の村ウェールズへ飛ぶと、そこはやはりアメリカでした。学校の体育館では、子ども達が派手なウェアを身に着けバスケットを楽しみ、コーラを片手に応援をしていました。海峡を挟んだ彼らは、親戚同士の間柄で、古くはセイウチの皮で作った船に乗り、自由に行き来していました。
サハリン(樺太)にも、アイヌ、ニブヒ、エベンキなど様々な少数民族が住んでいます。トナカイを放牧し、魚を捕ってそれぞれの文化を守りつつ暮らしてきました。飛行機に乗ってサハリンを空から見ると、果てしなく続く豊かなタイガが広がっています。母なる大地は全て自然の柔らかい曲線で描かれていて、定規で引いたような直線はどこにも見当たりません。しかし、手元の地図に眼をやると北緯50度に昔の日露国境線が引かれています。その土地に住んでいる少数民族の生活の場に、中央政府の方針で、ある日突然線が引かれました。この直線が非常に不自然で、不思議な感覚を覚えます。歴史の中で現れては消える線。手元にある地図の中から直線がなくなり、向こう三軒両隣が仲良く暮らせる日々はいつ来るのでしょうか。 |
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2006/6
裸の付き合い
日本で裸の付き合いといえば、もちろん“銭湯”、“温泉”ですが、ロシアでも伝統あるサウナで裸の付き合いがあります。
サウナは、全て廃材やドラム缶を利用した手作り。薪で石を焼き、そこへ水をかけて蒸気を発生させるスタイルで、その家庭のお父さんご自慢の一品です。
サウナの中では、白樺の葉のついた小枝を乾燥させ、何本か合わせて作った天狗のうちわのようなもので身体を叩きます。始めにそのうちわをお湯につけ、程よく温まり、しんなりしたところでスタートです。足の先から心臓に向けて叩いたり、かさかさと小刻みに揺らしながら皮膚に刺激を与えたりと色々手法があり、一人で叩いたり、相手とペアになって叩きっこをしたりしますが、儀式が終わった頃には体がぽかぽかして、血の巡りが良くなっているのが分かります。ちなみに、日本では銭湯の湯船で「うあー」と声を上げているおじさんがいますが、あちらでもうちわでビシバシ叩きながら「オー、ハラショー」と声を漏らしています。
日本のサウナでは入り口に、「お酒を飲んでいる方はお断りします」と書かれていますが、器の広いロシアではお構いなしです。田舎の人は普段のお風呂代わりにサウナに入りますが、都会の狭い公団住宅に住む人は、郊外に畑とサウナ付の別荘(ダーチャ)を持っており、週末に畑の手入れをしてサウナに入ることを大きな楽しみの一つとしています。そのため、ビール、ウオッカ、畑で採れたきゅうり、トマトなどを更衣室に持ち込んで、サウナでほてった体をウオッカで冷やしながらわいわいと会話を楽しんでいます。
冬のサウナの楽しみ方をひとつ。サウナ小屋は日本の昔のトイレのように庭の隅にあるのですが、熱さに耐えられなくなると、裸のまま表に飛び出し雪の中へ飛び込みます。始めは外の寒さだけでなく、“裸で飛び出す”こと自体が慣れない経験ですが、これが出来るようになるとあなたも立派な“ロシア人”です。 |
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2006/5
北のご馳走 「サラ」
ロシアでは、「サラ」と呼ばれる旨いものがあります。ブタの脂身を塩漬けにしたものに、ニンニクや香辛料(サハリンでは唐辛子)をまぶしており、こってりとした脂身は胃粘膜保護作用の働きもあり、ウオッカのつまみとしてはもちろんのこと、塩味が効き、カロリーが豊富なため極寒の旅の行動食にも最適です。街の市場では、韓国のキムチと同じで家庭ごとに味が異なり、おばちゃん達が自慢の「サラ」を並べて売っています。
面白いことに寒冷地で行動しているとき、そのときの体の調子は自分の舌で分かります。「サラ」が手に入らない場所では、バターの塊をホワイトチョコのようにスライスしたものや、よく炒めたカリカリベーコンを行動中に口に放り込みます。それほど寒くもなく、疲れも溜まっていない時はバターの塊も塩分と油分を程よく感じ、とてもおいしいのですが、身も凍るような寒さの中、疲労困憊しているときは不思議なことに同じもの食べても殆んど味がせず、ただ口の中で溶けていくだけです。
ダイエットブームの都会では、油の塊を食べることなど考えられませんが、厳しい自然環境の中で暮らす人々は肉も脂も余すところなくすべてをいただき、ビタミン剤に頼ることなく人々は生活をしています。
ちなみに旅の行動食といえば、ロシアにも「ロシア版カローリーメイト」なるものが売られています。薬局にしか置いていない少し高価な栄養補助食品で、蜂蜜味、カカオ味など何種類かの味があるチョコバーのようなものです。しかし主成分はチョコでなく、牛の血液を固めた本当の栄養満点バーです。そのため栄養分の不足する旅では、ありがたい存在なのですが、寒冷地では歯が折れそうなほど硬くなるので、若く健康な人しか齧れないのが欠点です。味は、やはり牛の血です……。 |
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2006/4
歩くのが楽なのか、それともスノーモビルか?
雪国での移動手段の一つにスノーモビルがあります。いまでも、生活や猟で犬ぞりを使っている地方はありますが、数は少なく、ほとんどがスノーモビルに変わってしまいました。日本製のスノーモビルといえばヤマハが世界中でも有名ですが、ロシアにも伝統的な“ブラン(嵐)”という商品名で呼ばれる質実剛健なスノーモビルがあります。ヤマハのスノーモビルはスリムでいかにも早そうな流線形、オートバイで言う前輪に当たる部分には細いスキーが2本、後輪に当たる部分にはキャタピラが1本ついています。それに比べて、スリッパをイメージさせる“ブラン”には、太いスキーが1本、キャタピラは2本左右並列についています。ロシア人曰く、「ブランは強い。何トンもの荷物を引っ張ることができる。それに、前のスキーが1本なので、タイガの中を走っても、左右のスキーの間に木が引っかかることが無い、ブランが一番だ!」。ロシアのスノーモビルは、大自然のタイガの中を走るため、多少重たかろうが、かっこ悪かろうが、とにかく壊れないようにごつくできています。
さて「旅をするのに歩くほうが楽か、スノーモビルが楽か」という問題ですが、“機械”で移動をすると常に故障と燃料の問題がついて回ります。誰も助けてくれない大自然の中では、故障やガス欠は命に関わる問題です。そのため何週間も予備部品とドラム缶を積んだ重いそりを引き、壊さないように常に慎重に走るだけでなく、猛吹雪の中素手で整備もしなければなりません。それらの気苦労を考えると、壊れる物の無いシンプルな装備で歩くほうがはるかに楽です。しかし、「この坂を登りきれば、後は平らだ。頼む!」と、スノーモビルをなだめたり、励ましたりしながら、苦楽を共にしてゴールするのは、愛犬と旅をしているようで、これまた楽しい旅です。 |
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2006/3
地元猟師に学ぶ
登山用品業界では新素材の衣類、最新の登山用品が常に開発されていますが、地元の猟師達は、昔ながらの、全て自然のものを身にまとっています。頭はもちろん毛皮の帽子。よくTVに出てくるロシア人が被っているスリムでおしゃれなイメージではなく、もっと過激にふさふさとしていて、耳掻きのボンボンみたいな感じです。
極寒のグリーンランドやカナダのイヌイットは、犬ぞりで猟に出るときは保温性を重視して白熊のズボン、トナカイのジャケットを着ていますが、サハリンの猟師は樹木の茂るタイガの中へスキーで狩りに出るため、動きやすさと汗の処理を重視して、フェルトでできているアウターズボンとジャケットを着ています。毛皮やフェルトは、素材が呼吸をしているので衣類の内側に湿った空気がこもらず全て外へ出て行きます。そのため内側は常に乾燥しており、暖かく快適です。また、乾燥している雪と毛皮やフェルトの特徴である空気の層のおかげで、雪面に長時間寝転がっていても、衣類が濡れることはありません。ブーツも同じく、徒歩やスキーで行動する猟師達は足首部分から上がフェルトでできているロングブーツ、スノーモビルで行動する猟師は、同じく毛皮製のブーツを履いています。毛皮のブーツはもともとパイロット用のブーツで、隙間だらけのコックピットでの操縦や不時着時のことを踏まえた装備のようです。ミトン(2本指の手袋)も毛皮でできています。−40度の中、スノーモビルで飛ばしていても、素手でミトンをはめている手はまったく寒さを感じません。
猟師達は夏も冬も焚火で調理をし、暖を取ります。化学繊維の衣類は、軽く、快適ですが火に弱く、火がつくとあっという間に燃え上がってしまうため、焚火の周りで寝る猟師達には天然素材のものの方がより安全で快適なようです。 “郷に入れば郷に従え”の通り、旅する場所や季節によって装備、服装を変えていかなければなりませんが、地元で古くから使われているものをお手本にすることは、厳しい自然の中で生きていくうえでの一番の安全策です。 |
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2006/2
海からの贈り物
アラスカとロシアの間を走るベーリング海峡のそばに、小さな村ウェーレンがあります。ロシアで一番西の端に当たるこの村は、セイウチ、鯨、アザラシなどを捕っているアジアエスキモーとトナカイの放牧をしているチュクチ人が共に暮らしている所で、10年ほど前、彼らと一緒に鯨猟へ北極海に出ました。5〜6人乗りの舟数隻で船団を組み、舵取り以外は全員が手銛を持ち、鋭いまなざしで沿岸を回遊するコククジラを探します。探すこと数時間、ようやく鯨を見つけ、舵取りと船首で誘導する手銛打ちとの連携で鯨を追い詰め手銛を放ちます。鯨は海中へ逃げ込みますが、手銛には10mほどのロープの先に直径1mぐらいのプラスチック製ブイがつながれており抵抗となって鯨の体力を奪います。呼吸のために再び海面へ浮上したところで、新たに銛を何本も打ち込むわけですが、船は鯨に限りなく近づくため、浮上する鯨が船に直撃するのではないかと、気が気ではありませんでした。
夏の終わりとはいえ、冬が間近の北極海に放り出されるとひとたまりもありません。戦うこと数時間、ようやく鯨を仕留めました。鯨が海中に沈まないように船外に縛りつけ、村まで引っ張って行くのですが、その前に船上では“ご馳走”が待っています。獲りたての鯨の皮を皮下脂肪ごと厚さ5cm、食堂のお盆ぐらいの大きさに切ったものが船に投げ込まれます。ナイフで一口大に切り、まずは海へ感謝の気持ちを込めて一切れ捧げ、それから自分の口に運びます。ちょうど脂ののったハマチの刺身にそっくりで、日本人にはこたえられない味です。
海岸に着き、トラクターで砂浜へ鯨を引き上げると、バケツやバッグを持った村の人々が見守る中、背丈ほどの大きな鎌のようなもので見事に解体され、肉も内臓も余すところなく人々に分け与えられます。残ったものといえば文字通り骨だけで、その骨にわずかにこびりついている肉も野良犬、鳥のえさになります。これから始まる過酷な冬に備えて、一頭の鯨が村に与えてくれるものは計り知れないものがあり、海と共に生きている彼らの伝統的な生活がいまもそこにあります。 |
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2006/1
ちょっとタバコを買いに大陸へ
ロシア本土とサハリン島の間を走る間宮海峡の最も狭い部分はわずか7.3km。そのサハリン側には数軒程度のポギビ村があり、対岸の大陸には小さな港のあるラザレフの町があります。夏はボート、海峡が結氷する冬は徒歩やスノーモビルで渡れます。海峡中央部分が凍って最短距離で大陸の町へ渡れる年は、現地の人は、上手に氷の迷路を抜け、極力平らな部分を探しながら走ります。時にはスノーモビルから降りて、自分の脚で氷の厚さを確かめ海に落ちないように、危ないと思う時はかなり遠回りをしてでも北側の氷の厚い安全な部分を走ります。
凍結する海の状況は毎年それぞれで、潮の流れの影響なのか、海峡最狭部のくびれを境に南北で海の氷の状況が違います。北側は見晴らす限り平らに結氷していますが、南側はちょうどピザを三角形に一人前分取り分けた後のように、くびれの中心をめがけて海が凍らず、海峡中央部分の黒々とした海面からもくもくとねずみ色の雲が発生させています。この雲が発生する理由は、海水の温度よりも気温の方がはるかに低いので、湯飲みのお茶と同じように湯気が出ている状態です。また凍り方もそれぞれで、スケートリンクのように真っ平らで分厚いガラスのような年や、真っ白いケーキにガラスの破片を無造作に突き刺したように海氷の上に積もった雪面からニョキニョキと分厚い氷の板が突き出ている年もあります。これらは、海が凍り始めた頃に穏やかな天気が続くと、海の氷はそのまま厚みを増して平らになり、逆に嵐に襲われると、凍り始めて厚みを増した表面の氷が掻き回され、気温が下がるとそのまま凍りつくようです。
ソ連からロシアになり地方の警備規模も縮小された今は、ウオッカもタバコも簡単に買いに渡れますが、ソ連時代はサハリンから大陸へ渡るには、上陸に当たって州の法律により厳しくチェックされており、いまだにサハリンの少数民族の彼らは上陸を好まず、取締りによるスノーモビルの没収を恐れています。時は経ても、まだまだ色々な海峡が立ちはだかっているようです。 |
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2005/12
サハリンに私設樺太博物館を建設中
サハリン南部に、当時の日本人が使っていた食器や、民具などを収集しているザハロフ氏がいます。サハリン西海岸の南部ズィリャンスキー村に住んでいる親日家で農場経営者でもあるザハロフ氏は、小高い丘の上に大きな農場をもち、その敷地内にあるロシア様式の建物を博物館にするために準備しています。農場からの見晴らしは非常に良く、足元の海辺で昼寝をしているアザラシ、魚の豊富な小川、海岸線に沿って走る線路が見え、周辺には旧石器時代の遺跡が残っています。やはり、今も昔も人が住みたいと思う場所は変わらないようです。
そのザハロフ氏のもとへ、先月のコラムに登場した考古学者のセルゲイ氏と共に展示資料の収集、整理のお手伝いに行ってきました。旧石器時代の矢じりや土器は地面をある程度掘らないと出てきませんが、樺太時代の食器などはまだ地表に露出しており、簡単に見つけることが出来ます。湯飲み、茶碗、徳利、お猪口、めがね、歯ブラシ、ビール瓶、薬ビン、ビー玉、おはじき・・・。当時の生活そのものです。長い年月で紙のラベルや金属の王冠などはすべて風化しており、湯のみ、茶碗などの瀬戸物は完全な形で残っているものは非常に少なく、それらの破片を集めた後は大パズル大会です。会社名、商品名が書かれているものもあり、「大日本麦酒株式会社」、「ミツヤサイダー」、「味の素」(サハリンでは現在も“アジノモト”で通じる)や「ニコニコハブラシ」、「バンザイ ライオンハブラシ一号」(象牙製)、「神薬 参天堂」(目薬)、「傷薬 スグナオール」、「下関名産うに」、また子供用の茶碗には金太郎、桃太郎、兵隊さんの絵が多く見られます。
整理作業をしていると、当時の流通や街の繁栄など生活の豊かさを感じますが、その反面、空襲時の火事で溶けたガラス瓶が融着している茶碗や、近隣の草むらに倒れたまま放置されている「忠魂碑」、朽ち果てた石橋などを見ると、戦争があった事実も直視させられます。 |
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2005/11
サハリン遺跡発掘 体験報告
サハリン在住の考古学者セルゲイ氏のお手伝いで、ここ数年サハリン西海岸(間宮海峡)北緯50度30分にある、クルーグルイ岬での遺跡発掘キャンプに通っています。“クルーグルイ”はロシア語で“丸い”という形容詞で、文字通り海岸の砂浜にちょうどコーヒーカップを逆さにして伏せたような形の、高さ27mの丸い岬が突き出ています。
この付近は、新たな生活の場所を求め北から南下するサハリン少数民族ニブヒと南から北上するアイヌが接触し、戦いのあったコンタクトゾーンでもあり、また様々な文化の特徴を持つ物が岬の頂上とふもとにある住居跡から発掘される貴重な場所で、新石器時代後期から中世期の終わりまでのオホーツク文化、ススヤ文化、北樺太文化、アイヌ文化、ニブヒ文化、その他アムール川下流から北海道北部に分布していた様々な文化が見られ、縄文式土器の破片(日本で発掘される物より装飾は質素)、矢じりやナイフなどの打製石器、紙の代わりに使われたと思われる白樺の皮、動物の骨などが出てきます。
発掘の方法は細かいことを気にしないロシア的。日本なら掘った土をふるいにかけて細かいところまで丹念に調べ、その後発掘箇所を元の形に埋め戻すと思うのですが、向こうは大きな破片だけを取り除いたら、土を岬の上から海に向かって投げ捨てます。参加メンバーも、現地の考古学サークルのちびっ子達とそのおばあちゃん達、博物館の学芸員、大学生など、考古学の専門家もいれば、まったく畑違いの人もいます。
キャンプ生活もサハリン的で、海岸に流れ着いた流木で焚き火を起こし、釣ってきた魚でスープを作り、林で摘んできた木苺をジャムにしてピロシキを作ったり、砂浜に打ち上げられている昆布をサラダにしたりします。
考古学と聞くとそれなりの専門家でないと近寄れないようなイメージを受けますが、セルゲイ氏のキャンプでは社会見学的な感覚で本物に触れることができます |
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