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1月12日中南米に位置するハイチで大規模な地震が起きた。
私がそのBreaking Newsを知ったのはNY支局内で先週取材したCES(家電ショー)の素材整理している時だった。CNNの速報、ハイチで大規模な地震が起こった模様。
「地震かぁ......中南米..........」よくある地震だろうと正直最初は軽視していた。
しかし時間が経つにつれ、アメリカの各メディアがハイチ地震の速報を取り上げだした。NBCによるとマグニチュード7、ハイチの都市ポルトプランスを中心に被害が拡大している、隣国に津波警報、死者多数との報道。
「あの時と...........」
私は14、5年前に起きた阪神大震災の悲惨な災害現場の状況を思い出した。そう あの時と同じように刻一刻と死者の数が増えていく、被災地の状況が明らかになっていく。
テレビ朝日NY支局としては、アメリカ本土からも近隣する国で起きた大災害、配信の映像だけに頼るわけにはいかないと判断。どのように現地に入るか、現地現在の状況収集、素材伝送方法等支局内で話し合われた。
1月13日大地震の翌日、現地ハイチに向けて出発。まずNYから飛行機でドミニカ共和国へ向かう。BGAN(サテライト伝送用)、衛星携帯、パソコン。 飲み水、携帯食料、マスク、簡易の薬など。NY支局としては発生間もない状況のため私と記者の2名で現地入り。軽装備の為これらの荷物を2つのリュックに詰め移動する。
1月13日米国東部時間16時にハイチ隣国ドミニカ共和国に向かう。ドミニカ共和国現地時間22時にドミニカの都市サントドミンゴに到着。サントドミンゴ空港を出てタクシー乗り場に向かう。暑くて汗が湧き出てきた。すでに赤道付近の国に来たことを肌で感じた。
1月14日、サントドミンゴから災害地ハイチにヘリコプター(空路)で向かう。
ヘリコプターは事前にチャーターしていた機体にブラジルのテレビ局Globoの取材クルーと同乗し現場に向かった。サントドミンゴからポルトプランスまでヘリコプターで約2時間、被災地現場が上空から確認できた。カメラZ5で空撮、記者レポートを行う。
ポルトプランスの空港に降り立つと各国からの支援物資を積んだ貨物機、軍用機が並んでいた。アメリカの海兵隊、フランスの軍隊、スペインの救助隊等空港の滑走路付近は騒々しい雰囲気に包まれていた。
記者の山野と私はリュックサックを背負ったまま、その状況を撮影、レポートをしながら空港の外へ向かった。ここで一つの問題があった。常に災害取材は緊急の突発取材である。この状況下でもある程度のリサーチは必要ではあるが、現場で状況を把握して打開しなくてはいけない。まず我々がやらなくてはいけないこと。それは我々に協力してくれる現地の人を探すことから始まった。災害地なら特に現地のことを把握している地元の人は必要である。人ごみをかき分けながら空港外へ向かう。
空港内の床や壁にヒビがはしっていた、建物の奥は電気が点かないのか真っ暗の状態、床は水道管が破裂したのか水浸しになっている。暗闇の廊下には5,6人の人々が座っている様子が見てとれた。しばらく歩くと遠くに明かりがさしている、外はもう近い。出口のドアのあたりでアメリカ軍の兵士が殺気立っている市民を制止している様子が見えた、足を運ぶにつれてその状況が増していく。空港外には助けを求める人々、他の土地を求めフライトを待つ人々など沢山の人々がいた。完全に空港は機能していない状況だった。
空港からポルトプランス中心の街まではさほど遠い距離では無かった。次に我々は協力してくれる人と車を求め地元の市民と直接話し合った。
30分位経って協力してくれる地元の人を見つけ、我々は市の中心に向かった。
車を走らせると、すぐさま災害の凄まじい状態が私の視界に飛び込んできた。
4,5階立てと思われる建物が完全に倒壊している。
多くの市民が沢山の荷物を持って車道を埋め尽くして歩いていた。人々の表情はすごくこわばっていて絶望感を漂わせている。泣き崩れる子供の手を父親が引っ張りながら足早に歩く。倒壊した建物から出た粉じんが辺りをつつむ、時折前方の視界が遮断される。しかし私は目を閉じるわけにはいかない。正直目を開けているのが辛かったが。現場の周辺には何か色々なものが焼け焦げたにおいが立ち込めていた。
私はガタガタと揺れる車からその様子を撮影し続けた。
しばらくして目的地周辺、倒壊した建物をクローズアップでおさえるべく我々は車から降りたった。倒壊の規模はものすごく、屋根の部分がそのまま滑り落ちたかのように道を閉ざしている。電線も寸断されていて火花を出し白い煙が出ている。道いっぱいにガレキが散乱していて注意をはらいながら歩いた。
その直後、現場の様子が一変した。倒壊した建物から逃げ惑う人々が重なりあうように歩っている。その人々が歩いてる道には遺体が無造作におかれていた。ここにも、あそこにも、沢山の遺体が放置されていた。腐敗している遺体、遺体の一部分が転がっている様、とても酷すぎる現状だった。そして、ものすごい死臭が鼻を突き刺す。息をするのがとても辛かった。この時、あらためて災害の悲惨さを体全身で感じ、同時にすごい恐怖心におそわれた。冷静に、冷静に、自分にいいきかせた。「この状況を.........」私はその一心で撮影し続けた。
辺りはものすごいホコリと死臭。
そこから1ブロック歩くと倒壊した店のガレキ周辺から人々が騒ぎ立てる声が聞こえてきた。「何だ、何処から?」私は言葉をはっして辺りを見渡した。その声は倒壊したガレキの中から聞こえてくる。次の瞬間、倒壊した店のガレキの隙間から両手いっぱいにモノを抱え出てくる4,5人の男、また1人、また1人と次々とガレキから人々が出てくる、商品を抱えながら、まさしく略奪の瞬間である。完全に殺気だっている、治安は維持できていない状況下。
しかし、その現場には警察、軍隊の姿は無く、メディアも我々だけだった。
今回の取材は過酷な取材そのものだった。肉体的なことより精神的に心情的に考えさせられる場面がおおく、あらためて大災害の取材の難しさを痛感した。義援金や募金を災害現地に送ることは大事なことである。我々メディアは別の形で貢献できる事を忘れてはならない。大災害の悲惨な状況を伝える事が報道我々の使命だと私は思う。
カメラマン 羽根田勉(NEXENT)
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